人は、生まれてから死を迎えるまで、また朝から晩までの1日中、常に自治体とかかわって生活をしている。出生届から死亡届まで、また朝起きて顔を洗う水道水から、トイレの下水道まで、市民と自治体とのかかわりは非常に強い。
自治体の事務は、大きく・固有事務−その住民の公共福祉の増進に関する事務と・委任事務−その団体又は機関に委任された事務とに分けられるが、戦前、戦後を通じて委任事務が増え続け、今回の地方分権論議に至るのである。一方、自治事務も旧態依然とした事務が整理されないまま、更に新しい、特に日常些細な、本来自ら処理すべきことすらも市町村に持ち込まれ、増え続け、自治体の事務はあまりにも多くなりすぎたのではないか。自治体は、この多くの事務を、更に今後も新たに増え続けるであろうと予測される事務を効率よく、かつ適正に処理しうるのであろうか。これらの事務(以下「公共サ−ビス」という。)のすべてを自治体だけで担い続けうるのか、自治体で担うことが適正なのか、あるいは誰が担うのが適正なのかについて、自治体と市民が知恵を出し合って、考え直す必要があるのではないか。
公共サ−ビスの基本的なところから、簡単に、現在までの経過を追い、現状を分析しながら、これらの公共サ−ビスのあり方とその担い手について、公共労働のあり方にも留意しながら、問題提起をし、議論を深めていきたい。
昔、人々はその暮らしから生じる諸問題を解決するために、自らあるいは自主的な協力調和関係によって解決してきた。
朝起きて顔を洗う水は井戸水であり、近くの小川の水であった。使われた水は地中に吸い込まれたり、小川に返したりしてきた。し尿は肥料として使い、自然に返して、一般的にはあまり第三者の手を煩わすことなく処理されてきた。更には、道路等の補修にしても地域の人々が協力して行っており、地域共同事務も地域名望家−名誉職市民を中心に行われてきた部分が非常に多い。
このように人々は、自給自足的な生活の中で、自警、相互扶助、親睦等を、江戸時代には五人組で、その後も隣組等いろいろな形で、地域集落による自治が行われてき部分は多い。それは、時には封建的支配体制に利用されもしたものの、隣保共助の精神に基づく、協力関係によって行われてきたのである。
人々の生活スタイルは、明治以降そして第2次世界大戦後大きく変化し、自分の力では、そして地域の人々の協力だけでは処理しきれないことがあまりにも多くなり、その結果、地域共同事務を自治体に信託し、職業的公務員に委ねざるをえなくなったのである。そして、当初は単純な地域共同事務の業務が大半を占めていたが、戦後の高度経済成長期を経て、自治体の業務は増え続け、その内容も高度で複雑化してきた。その一方で、単純な業務も未だに公共サ−ビスとして担い続けている。
公共サ−ビスは、日常生活レベルにおけるごく基本的な共通事務、つまり、個々人でできないこと、責任をとれないこと、機能させることが困難なこと−生活の必要条件−から今や、より一層快適な生活を求め、将来的な夢を実現するための事務にまでふくらんできている。
公共サ−ビスを類型化してみると、
となり、現在の公共サ−ビスは、日々を安全かつ快適に暮すための条件づくりはもとよりそれが将来的にも持続し、より豊かな人生を営めるようにすることまでとなりつつある。更には、高齢社会問題、ごみ処理を含んでの地球環境問題、人権・平和を含む地球規模での国際的政策問題等と大きな課題をかかえ、新たな公共サ−ビスの展開の必要性に迫られている。
このような自治体の状況の下で、地方分権推進委員会は、地方分権推進法(1995年6月制定)に基づき、同年7月に発足し、精力的な審議により、96年12月の第一次勧告・97年7月の第二次勧告、同年9月には第三次勧告が出された。
当初言われた、明治維新、戦後改革に次ぐ「第三の改革」との大目標からすれば、ト−ンダウンしたと言わざるをえないが、機関委任事務を廃止した意義は大きい。今後は6割の自治事務−自治体が主体的に行う事務と4割の法定受託事務−国と自治体が共に責任を負う事務とに分かれて担うことになる。
この分権推進委員会の勧告を受け、独自にも、国から都道府県・市町村へと更に都道府県から市町村へと事務は委譲され、自治体の事務及び決定、責任の範囲は広がり、重くなるであろう。
これにより、市民の身近かな所での政策選択ができ、独自性のあるまちづくりができるという点では意義が大きいのだが、自治体の公共サ−ビスの範囲が広がりすぎることにならないかとの危惧もある。
高度経済成長期には、「ポストの数ほど保育所を」・「すぐやる課」・「なんでもする課」の設置等、その時々の時代の要請であったというものの、公共サ−ビスは拡大し続けてきたのではないか。本来市民の自主的、自立的活動団体であり、その運営は自ら行うべきであるにもかかわず、いつの間にか、その事務等を自治体職員が請け負い、それが当然のごとくになり、自主的・自立的な市民活動ではなく、「御用団体」化してしまって、本来の活力をなくしてしまっている団体も多くなっている。
分権型システムへの自治体改革は、自治体自身の改革であり、自治体間関係の改革でもあるとともに、市民と自治体の関係の改善、つまり市民の政策決定参画機能の強化を前提としてだが、市民の責任も増加することを忘れてはならない。
これからの分権型社会における自治体の公共サ−ビスの展開は、自らの責任と負担において行われなければならない(もちろん、国と地方の財源配分についての議論はもっと行うべきではあるが…)。
まず、公共サ−ビスの増と負担の増についてであるが。公共サ−ビスが増えれば、負担も増えざるをえない。財源は国の補助金、起債(借金)、他の公共サ−ビスの削減等々によることも可能であるが、場合によっては、直接市民負担の増という形になることも考えられる。負担増を市民が納得するか否か。もし市民が負担増を好まないとすれば、公共サ−ビスの範囲を狭め、質を軽減せざるをえなくなり、公共サ−ビスと化している業務の一部を地域の共同で行うとか、まったく民間で行うとかの選択をする必要がでてくるかもしれない(もちろん、公共サ−ビスが厚く、負担も軽い他の自治体へ転居するという選択もこれからはとられるであろうが…)。
次に、公共サ−ビスの範囲については、これまでの社会経済状況の変化や、生活スタイルの変化に伴う行政需要に、あまりにも応えすぎた部分がありはしないだろうか。今後予測される政策課題を考えれば、自治体として提供する公共サ−ビスの範囲をもっと精査すべきであろう。公共サ−ビスの大原則とされる「公正」・「平等」があまりにも重要視されることで、効率的、効果的な業務遂行ができない業務も多いのではないか。そのことが負担増や質の低下をきたしているのではないか。
これからはますます専門的で高度化した業務が増え続け、より質の高い公共サ−ビスが求められるであろう。より質の高い公共サ−ビスを提供しようとすれば、これまでの公共サ−ビスの範囲を限定し、それに相応しい業務内容とすべきであろう。
ここで公共サ−ビスを誰が担うかについて考えるため、担い手の類型化を試みてみると
と分けられるであろう。
例としてあげれば、[2.民間として行う]については、かつて日本国有鉄道がJRになったように、例えば、公立保育所の管理・運営を民営化し、自治体は保育所入所者だけでなく、地域全体の子育て支援方策をたて、支援を行う等があげられる。
[3.市民自身が行う]では、昔そうであったように、自家の周囲の道路の清掃等は自ら行うこと等があげられる。
[4.新たな自治体で行う]では、最近のごみ焼却炉問題に鑑みて、近隣自治体の協力によるごみ焼却等のごみ処理行政があげられる。
現在の公共サ−ビスをもっと精査する中で、さらに検討すべき課題をあげていけばいいのではないか。
更に、自治体自身で行うとしても、その手法としては、
1.自治体自ら行う
2.第三セクタ−で行う
3.民間委託で行う
4.NPO等に委ねて行う
5.市民との協働で行う
等が考えられる。それぞれの特徴と機能を精査し、その業務毎に検討すべきであろう。
自治体は、今後より一層、質の高い公共サ−ビスを、適正な負担で市民に提供していかなければならない。これまでみてきたように、公共サ−ビスの範疇は増え続け、高度・専門化してきている。こんな状況の下で、自治体及び自治体職員は、これからも「質の高い公共サ−ビスを適正な負担で」提供できるのだろうか。そして市民は何を求めているのだろうか。
これまでの公共の概念やテリトリ−に固執せず、公共の独占、直営堅持というかたくなな姿勢をくずして、市民、NPO等、民間の発想・能力に委ねるべきことが多くあり、そのことでより良い公共サ−ビスの提供ができるようになり、全体として市民の満足が得られるものになるであろう。
そのために、もっと情報を公開し、市民と共有し、市民討議にも付して、公共サ−ビスのあり方について、理解と納得のもとに、その範囲と担い手を変えていくべきであろう。 今、大胆に地方自治法、地方公務員法等も改正し、自治体職員の姿勢も変え、真に喜ばれる公共サ−ビスの提供システムを新たに構築すべきときである。
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